京都人には気遣いに関してかなりかなり敏感な人が多いと思っている(少なくとも私の周りには多くいる)
人に対しての優しさや思いやりがさりげなく自然に出来る人、また自分も自然にできた時こそ、ちょっと大人になったように感じる瞬間だ。これがさりげなく日常にできるようになるためには、日頃からの言動から繰るのではないかと思う。
自分がっ・・、やってあげてる。などという気持ちを持っている人はまだまだこの域には到達できないのだ。自分の意思でやらせてもらいたい・・という気持ちを持って行動した時にこそ、この粋な行動へ変わる。こんな粋な心を持った人が昔はもっと多かったし、幸いにも我々の育った周りにもそんな人が多かった。
しかし、これは、幸いに思うには私たちだけかもしれなったということをこの記事を見て悲しくなりながらそう思った。中国では「他人に対する親切」も、大きな問題につながってしまう可能性があるという出来事だ。http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=1212&f=national_1212_010.shtml
2006年11月、南京市に住むある青年がバス停で老人が倒れているのを発見、起こしてあげたうえに病院にまで連れて行ったのに・・・。なんと、検査の結果、老人が骨折していることが判明すると、老人の家族は「骨折したのは青年がぶつかってきたためだ」と訴え、青年は数万元(1元=約13円)の治療費を支払うよう要求されるという事件が発生した。裁判の結果、青年は1万元(約13万円)を支払うハメになってしまったということだ。
日本ではありえない話だが、最近の人(若者だけではない)この記事を見て、「そうなんだよ、人に関わるとロクナコトがないんだよ!」と、電車の中で得意そうに話ししていた中年男性・・・。その記事知ってると私は思いながらぞっとした。この記事は彼の語る中では戒めの記事になってしまっていた。それは違うでしょ!今の時代は人に関心がない、知っていても知らん振りするのがあたかもクールなんだといわんばかり。
人は寄り添って思いやりを持って生きるのだということ。でもこれは、日本語だから漢字圏だけの話しであるといったり、こじ付けだと言ったりする人も少なくない。
その字の成りたちとしてとてもいい話であるという事が大事な事。漢字を知らない人でもこういった話題を提供できるという事が日本人としての心の豊かさを伝えることでもあるのだ。昔の人言い伝えを今も話しできるという事は、異本人のなったのかもしれない・・と想像したり考えたりそういう人はそんな思いでそう伝えたのか?という所を考えるのが良い所なのだ。
でもそうでないという事が分かった。カイルの思いと私たちの思いとが通じあっていた事がよく伝わってきた。
sincerity
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